(2)備中松山藩・板倉勝政公のとある一日から
江戸も幕末の有る日、江戸城正面に位置する常磐門の警護に備中松山藩(現在の岡山県高梁市:たかはし)藩主である板倉勝政公が当たった。厠にたつと、窓のそとから朗々とした素読の声が聞こえてくる。板倉公はちょっと気にとめたが、それはそれですぐに忘れてしまい、もとの警備の役へもどった。ところが、板倉公は三年後に再び、この常磐門の警護に就かれたのである。そして、厠に立つと、なんと三年前にたしかに聞いた、あのろうろうとした素読の声がまた聞こえてきたのである。
写真1.東京千代田区大手町と日本橋本石町を繋ぐ常磐橋。手前の大手町側に江戸城・常盤御門があった。常盤御門跡は公園となっている。2002年撮影。撮影時、常磐橋は改修中で、改修中の左側の部分を画面から外している。東日本大震災以来立ち入り禁止となり、さらに現在(2015.7)全面改修工事中で、この写真の姿は現在見られない。大手町方面から日本橋方面に向かって撮影。橋むこうの日本橋方面には日銀の新館、旧館の両方が見える。
公は家臣の平田藤兵衛篤穏を使って、この声の主を調べさせた。そして、声の主は、久保田藩の大番頭の四男、大和田半兵衛正吉という人物であることが分かって、北国の雄藩の家老の息子ともあろう者が、どうしてそんなに賤しい生活をしているのかと驚いたのである。しかも、かつて一度平田藤兵衛に山鹿流の軍学を学びに来たことのある既知の人物であることもわかり、公の家臣である平田藤兵衛はちょうど跡取りが病死した直後であったこともあり、正吉を平田家の養子として引き取らせたのである。その後、正吉は、養父の名を一字いただいて平田篤胤と名乗るようになるのである。
ここで仮に、板倉公以外の人物だったら、江戸見附の番所に聞こえてくる、聞えよがしな素読の声を聞いたとしたら、むしろ正吉を怪しい者として取り調べをしたのではないかと思うのである。ましてや決して引き立てるどころではなかったであろう、と思うのである。そしてまた、正吉も勝政公や平田藤兵衛に拾われなかったら、せいぜい人生を全うしたところで、商家住み込みの極貧の浪人で終わっていたのに違いないのである。
そして、この破格の条件のおかげで、譜代大名の家臣として、正吉はまさに堂々と著述活動ができるようになった。
ただ、なぜ、このようにとんとん拍子に正吉は出世できたのであろうか。まことに不思議なことなのである。なにか、よほど勝政公は変わった人だったのか。正吉とは、そんなに何かとてつもない人物だったのか。
引用文献
1)大壑平田篤胤傳:伊藤 裕.昭和48年7月二十五日、錦正社