主君・板倉勝政公の思い
久保田正吉、のちの平田篤胤に、主君の板倉公が破格の待遇で面倒見てくださった裏には、板倉家に伝わる、ある強烈な思いがあるのではないか、というのが私の見解である。すなわち、これから述べる板倉一族が負った重大な体験が、正吉を世に送り出すことになったひとつの重要な鍵になっているにちがいないと私は確信するのである。
徳川家康公の腹心として活躍した板倉宗家・初代勝重(かつしげ)公は、ポルトガル・スペイン船来航、宣教師たちのローマカトリックの布教で、日本国内に多くのトラブル・異常事態が発生する中、寺社奉行・初代の京都所司代として切支丹禁教・鎖国令を出した家康公の知恵袋である。ローマカトリックの宣教師の行状に関しては、さまざまな情報を集められていたであろう。そして彼らの真の狙いを良く把握し、 我が国はこれらの国とどう対応するのか、相当に計を図った方なのではないか、と私は想像するのである。
しかも、ここでとくに注目すべきことは、勝重公にとって、跡取りとしてもっとも将来を嘱望されていた次男の板倉重昌公を、やむなく島原のカトリック教徒の弾圧に端を発する農民一揆・島原の乱のとき送り出して、戦死させてしまっておられるという事実なのである。
勝重公の次男・重昌公は、なかなか解決しない島原の乱といわれた農民一揆の対応に非常に苦慮させていた。最後には、幕府中枢と反乱軍との板ばさみとなって、無理な突撃攻撃を指揮敢行、敵方の狙撃兵の銃弾を額に受け即死、という壮絶な戦死をされたのである。さらに、このとき、一族二百名余とともに幕府方総勢六千余名の戦死者を出すというまことに悲しい事態となってしまったのである。
そして、その後、この島原の乱の記憶もほとんどうすれてしまったであろう天下太平の世が200年ほど続くのであるが、再び、重装備した異国の商船・戦艦がうろうろと日本の海をさまよう時代となってゆくのである。
板倉宗家も、初代の勝重公から数えて十二代、前述の勝政公が藩主として登壇される時代となった。ただ、板倉宗家に起こった島原の乱という重い重い過去の事件の記憶は決して無くなっていなかったと私は思うのである。むしろ、武力を背景に日本に無理難題を押し付けてくる西欧列強にたいして、なんとか日本人として戦いをいどまなけれはならないという強烈な思いを持っておられたのではないかと想像するのである。
そして、島原の乱の時、板倉家が味わった辛酸こそが、江戸城の正面前の商家で、まことに聞えよがしに素読を繰り返していた、この奇怪な正吉という人物が、”もしかして日本を救うことになる重大な人物”として公の眼(まなこ)に映ることになった原因を作った、一種のトラウマのようなものではないか、と私は思うのである。
「日本人は、しっかり日本人としての教養を積ませなければならない、そうでなければ、日本中がまたキリスト教の連中に騙されて、日本中にごたごたが起きる。そして、ふたたび我が一族に起きたような不幸な衝突が、またきっと起きるに違いない。」と、勝重公の末裔である勝政公も、きっとそう思われたであろうと私は確信するのである。
残念ながら世に出ている資料が非常に少なく、勝政公と勝静公父子の伝記がさらにつまびらかになってくることを一信徒として大いに期待するものである。