邪教・ユダヤ教の堕落したミニコピー、創価学会

創価学会とは、所詮権力に屈服した、大聖人の魂を捨て去った負け犬信徒である。





 
創価学会のここ数十年の活動実態は、①課税されない宗教法人であることを悪利用し、会員から集めた巨額の資金で新聞社、テレビ局等のスポンサー、タレント人材のプール組織として、あらる場面で政治的な圧力をかける②政権与党たる自民党の補完勢力として、選挙における集票力をチラつかせて、政権与党に巣食って強権的に政権党内に自分たちの利権を拡張させていく。③破門・解散命令を下された総本山大石寺に、ありとあらゆる非合法・合法の嫌がらせをやってきた、と言ったところである。

 同様の方法での社会の乗っ取り策動は、西欧でユダヤ人が金融からヨーロッパ支配を目指して、乗っ取りに成功した事例とよく似た方向性をもつのである。つまり、多少方法論は違うが、最終目標は政治的支配階層をターゲットにして、強引なやり方で次第に社会を侵食し乗っ取ろうということである。しかもユダヤがやってきたように、なるべく表に目立たないやり方で、いつのまにか社会を乗っ取ろうとするやり方を特徴としている。




 ところが、組織の生命線を権力簒奪に置いているということは、じつは、最悪のやり方である。信仰の何たるかが全くわかっておらず、まことに危険で愚かな手法に拘泥しているということを述べてみよう。

 創価学会のコピー元であるユダヤ人の歴史をみると、その危険な行為の結末が非常につまびらかにわかるのである。ヨーロッパ社会を資金力という政治力で支配していたユダヤ資本家がイギリス・フランス・アメリカ等の国家を総動員させて造らさせたイスラエルという国家を念頭に置いてみよう。
 イスラエルという国家は、ヨーロッパ先進国とユダヤ資本家の利害のうえに、中近東に強制的に国境を作って1948年にできあがった人工国家である。すなわち、先進国の武力を背景にした政治力でできあがった国境と、分断された周辺国家を無理やり固定化して、はじめて成立しているのである。すなわち、端的にいうならば、”札束”で人為的に作られた国家であるということである。

 
 したがって、国家と国境保持のため、常に権力・武力・財力の行使をおこなっていないと存在し得ない、まったくの”砂上の楼閣”ともいうべき国家と国境というわけである。

 かくして、創価学会も、戸田会長の本当の折伏の時代が過去のものとなり、いつのまにかユダヤのコピーと化し、政治権力・社会権力のみを当てにして生き延びようと画策する池田大作・創価学会の組織は、政治力、財政力の上にしか成立しえない、無駄な財力・人力をづぎこむにすぎない人工的な組織としてしか現在の地位を保てなくなってきているのである。


 彼らは根本的に間違っているのである。

 平成3年11月28日に日蓮正宗総本山大石寺から破門されて、24年後の昨年平成27年、会則の変更を行い、とうとうと言うか、ついに弘安二年の戒壇大御本尊を信仰の対象としないと明文化した。
 とうとう化けの皮が剥がれて正体が出てしまったのである。それまで散々”お山は離れない、潰れるのは日顕宗だ”、とかなんとか、訳のわからないことを言いながら悪行の限りを尽くしてきたのは世間周知の事実である。
 
 その間、総本山攻撃をやっていた池田大作の手下どもが、病死・怪死をしたり、果ては、街ごと乗っ取りを賭けた東北の都・仙台で、前代未聞の大地震あり。
 乗っ取り野望の果ての結末が、プルトニウムをはじめとするとんでもない放射性物質が東北関東東京あたりに大量にまき散らされて日本壊滅の危機すれすれまでいった原発メルトダウン(本当はメルトスルーでいまでも核燃料はどこまでおちているか本当のことなどとても言えないのであるが)事故であった。
 あまりに情けなくて言葉もでないのである。いまごろになって、ついに”ああいえば上祐”のごまかしの限りをつくしていたのに、とうとう論理的破綻が誰の目にも明白になったのに、いまだにしらばっくれているありさまである。

 「我々(創価学会)は、皆さんを戒壇大御本尊様の御前に連れてまいる大八車である。」と宣言し、専用の登山列車まで企画し大登山会を命じてきた戸田二代会長と、その時代の心意気をなんと振り返るのであろうか。戸田との師弟不二とか、ぬけぬけと言っていた池田大作の出鱈目さ加減が、まことに哀れである。


 日蓮大聖人の思想の根本は、事の一念三千である。事の一念とは政治力とか権力とか、武力等とはまったく次元の違う、人の命の実態そのものともいうべき世界を捉え、いかにし褪せることのない命を自分の中に打ち立てるかということを生命線にしているのである。

 殊に折伏という「行」は、権力や政治力、ウソや騙し、賄賂とうとうを用いて行うような行いでは、まったくない。
 正しい教えだけができる、本当の自発的情念から発する慈悲の行いである。世法レベルとはまったく次元の異なる、相手の幸福を本当に願う人間の主体的行為と、折伏される人間との本音とがぶつかり合う、厳しくも楽しい仏道修行なのである。

 日蓮大聖人の御心を拝すると名乗るのであれば、戒壇の大御本尊様は日蓮大聖人の魂魄である、との御金言をどう受け止めるのか。ちゃんと答えていただこうではないか。